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いま気付いたよ、新田義貞

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義貞、馬より下り給ひて、冑を脱いで、海上を遥々と伏し拝み、龍神に向かひて祈り誓し給ふ、仰ぎ願はくば内海・下海の龍神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かせ給へ、と至信に祈念し、自ら佩き給へる金作の太刀を抜いて、海中へ投げ給ひけり。まことに龍神納受やし給ひけん、その夜の月の入り方に、先々さらに干る事も無かりける稲村ガ崎にはかに20余町干あがって平沙渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり、不思議と云うもたぐい無し。
「太平記」 (巻第十、稲村ガ崎干潟と成る事)
元弘3年(1333)5月、新田義貞は北条軍の強固な守りにより鎌倉を攻めあぐんでいた。極楽寺切通しからの鎌倉攻めを無理と判断した義貞は、5月21日深夜、稲村ガ崎の海岸にて自分の太刀を海に投げ入れ、龍神に戦勝を祈った。すると、みるみると潮が引き始め、義貞は6万騎を率いて稲村ガ崎の岸壁沿いに鎌倉へ突入、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府はついに滅亡したのである。これが世に言う新田義貞の稲村ガ崎徒渉伝説である。

日本史上、最も有名な群馬県人はこの新田義貞に違いないでしょう。そう、何せ「歴史に名高い」お方ですから。そして、そのお姿は上毛かるたの絵札を見ての通り、気高く雄雄しいこと、この上ありません。子供の頃から格好良さ№1と思っていたこの絵札ですが、その姿が稲村ガ崎で太刀を奉納する場面であることに、すずきさんの記事を見てようやく気付きました。徒渉伝説は知っていたのに、「何か祈っているなぁ」位にしか思っていなかったんです。バックには波しぶきも描かれ、よりマンガチックな初版を発見した時に気付くべきでしたが、その後改めて上毛かるたの絵札をじっくり見る機会もなく、「見ていたのに見えていなかった」ということでしょうね。上毛かるたには、まだまだ気付いていないメッセージが隠されているのかも知れませんね。
by sanzokuame | 2006-01-11 22:18 | ぐんまな資料


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