1985.8.12
それは高校最後の夏休み、蒸し暑い晩のことでした。
夕飯前に父親とTVを見ていると「JAL機、レーダーから消える」の第一報が画面に表示されました。
その後、各局殆どが臨時報道番組に切り替わり、その模様を家族で食い入るように深夜まで観ていました。
やがてどこからともなく響き渡ってくる数多くのヘリの音を聞きながら、寝付けない夜を明かし、
翌朝、TVに映った緑の山肌が大きく茶色に削り取られた映像に「あぁ・・・」とただ言葉を失うしかありませんでした。
その後の藤岡市内はまさに「蜂の巣をつついた」ようで、市内の医療関係者は総動員、私の母親も含め、
多くの市民が、乗客の家族・関係者の待機場所となった学校の体育館へ炊き出しなどの手伝いに通う日々が続きました。
遺体安置場所となった藤岡市民体育館は、当時の市内では一番大きい容量をもった施設で、
小学生の時は上毛かるた大会、中学時代には吹奏楽の演奏会など想い出のたくさん詰まった場所でもありました。
余りの悲しみの大きさに、その後この体育館は取り壊され、跡地には石碑が建っています。
520の御霊を見守る神流川の清らかな流れを見るとき、いつも思い起こす悲しみの記憶。
決して風化などさせてはいけない記憶なのです。